ワールドカップの伝説・アルフ・ラムゼイ オールドウルフ

 

 

概要

 

 

 

アルフ・ラムゼイ」は、選手と監督の両方で、英国サッカー殿堂入りを果たしている英国サッカー界の傑物でした。

現役時代のラムゼイは、サウサンプトントッテナムに在籍して主にサイドバックやサイドハーフでプレーしていました。非常に卓越した選手であったラムゼイは、イングランド代表にも長年に渡って選出され、キャプテンも努めました。しかし、多くのファンは彼を主に監督としての功績で認知しています。

1955年、現役を退いたラムゼイは、3部リーグに所属していたイプスウィッチタウンというクラブの監督になりました。

ラムゼイは、就任から僅か5年でチームを1部へ昇格させると、61-62年にはクラブを初のリーグ制覇に導きます。監督としてのラムゼイの名声は高まり、リーグ優勝から約1年後、彼はイングランド代表の監督に就任しました。

ラムゼイはイングランド代表で、それまでの左右のウイングが重要な役割をこなす4-2-4systemに代わる特徴的な4-4-2systemを持ち込みました。伝統的な両ウイングを置かないラムゼイの特徴的なフォーメーションは、ウイングレスワンダーズ(翼なき脅威)と呼ばれ、彼は見事に自国開催の1966年のワールドカップでチームに栄光を齎しました

これは現在までにイングランド代表が獲得した最大にして、唯一のタイトルであり、英国サッカーの歴史で最大級の偉業と評価されています。

 

経歴

 

イプスウィッチタウン(1955-62)

イングランド代表(1963-74)

バーミンガム(1978)

 

管理

 

ラムゼイが採用した4-4-2フォーメーション(ウイングレスワンダーズ)

 

ラムゼイの監督としての成功の要因は、主に2つの変化にありました。

1つ目は、パスの本数を減らして、よりシンプルなダイレクトプレーを重視したことでした。

ラムゼイは現役時代、「アーサー・ロウ」監督が率いていたトッテナムで有名な<プッシュ・アンド・ラン>戦術でプレーしました。これは壁パスとワンツーに基づくプレーで素早くパス交換を行い、ボールを細かく回しながら攻めるという戦術で、現代のポゼッションサッカースタイルの源流の1つと考えられています。しかし、ラムゼイはその戦術を好んだロウ監督とは異なる考えを持っていました。

彼はパス交換の回数が増えるとそれがミスに繋がり、特に戦力に秀でていないチームではシンプルに効率よくプレーすることが重要であると考えていました。

2つ目は形成の変化でした。

ラムゼイがイングランド代表を率いた60年代、サッカーの世界で強い影響力を誇ったのはハンガリーやブラジルが採用した4-2-4systemでした。ラムゼイも代表チームを引き継いだ当初は、このフォーメーションを採用していました。しかし、チーム強化のために行った南米ツアーで思うような成果を挙げられず、それはラムゼイにこのフォーメーションで戦うことの限界を痛感させました。

ラムゼイは中盤の深い位置に守備的なMF(アンカー)の役割をこなす選手を置くことを考えましたが、従来の4-2-4systemでそれを行うと、中盤の残る片方のMFに攻撃面でのゲームメイクが偏ることを懸念していました。

それがラムゼイに形成の変化を促しました。

ラムゼイは伝統的なウイングを置かずに中盤に多くのMFを採用し、中盤の選手にワイドの選手としての役割をこなさせました。彼の特徴的な狭い4-4-2(4-1-3-2)systemは、伝統的なウイングを廃した形から、ウイングレスワンダーズ(翼なき脅威)と呼ばれることになります

 

 

ピックアップマッチ

 

イングランド代表VS西ドイツ代表(4-2)

開催日:1966年6月30日

開催地:ウェンブリースタジアム(ロンドン)

 

1966年のワールドカップ決勝は、開催国であるイングランド代表西ドイツ代表を倒して、優勝トロフィーを掲げたイングランド人にとって記念すべき試合でした。その反面、戦術や試合内容より、審判の判定を巡る論争が話題になることが避けられない因縁の試合でもありました。

試合は前半に西ドイツ代表が先制した後、シーソーゲームの様相を呈し、2-2のまま延長戦に突入します。延長後半にイングランドの「ジェフ・ハースト」が放ったシュートは、西ドイツのゴールバーを叩いて跳ね返り、そのまま真下に突き刺さりました。ゲームを裁いた主審は、ゴールポストの近くにいた線審に確認を取って得点を認めました。結果、これが決勝点となり、イングランドは決勝戦に勝利しました。

未だに両国のメディアやファンの間で論争となるこの得点判定は、両チームの間に遺恨を残し、それ以降の両者の試合は因縁のゲームとして注目を集めることになります。

 

ベストプレーヤー

 

 

ボビー・ムーア (イングランド)

 

ザ・キャプテンの異名で呼ばれる「ボビー・ムーア」は、今を持ってその功績が語り継がれる伝説の選手でした。後方からチームを支えるディフェンスの要であった彼は、対人能力と守備の統率力、更にフィード能力や攻撃センスといったDFに必要な能力を完璧に備えていました。

ラムゼイはムーアをピッチにおける自らの分身と称し、彼に全幅の信頼を寄せており、僅か25歳という若さで代表チームのキャプテンを託しました。

当初は懐疑的な声もあったものの、強烈なキャプテンシーを持っていたムーアはその重責を果たしてチームを纏め上げ、代表チームをワールドカップ制覇に導きました。

 

獲得タイトル

 

イングリッシュリーグ3部(1):1955-56 /

イングリッシュリーグ2部(1):1960-61 /

イングリッシュリーグ1部(1):1961-62 /

 

ワールドカップ(1):1966 /

 

評価

 

イングランドは驚くべきことにラムゼイが指揮するまで、代表監督に多くの権限が与えられてはいませんでした。選手の選考すら監督の判断ではなく、サッカー協会の役員の判断に委ねられていました。ラムゼイはそうした環境を変えて、選手選考の権限を監督に一任すること、チームに医療スタッフを帯同させることを許可させました。

厳格な性格からオールドウルフ(老狼)の異名で呼ばれたラムゼイは、メディアからしばしば偏空で扱い難い人物というレッテルを張られていましたが、選手たちからは信頼を集めました。彼は公平かつ公正に選手たちを扱い、皆を平等に評価しました。ワールドカップの期間中、サッカー協会が選手起用に介入した際、ラムゼイはその要求を跳ね除けました。チームの倫理を信じるラムゼイはチーム内にスター選手を作らず、「ボビー・ムーア」や「ボビー・チャールトン」といった主力選手すらチームのために働かなければ容赦なくチームから追放しました。

ラムゼイは監督キャリアで、たった3つのチームしか指揮しませんでした。しかし、彼はそこで本当に多くのことを成し遂げたので、それ以上のことを証明する必要はありませんでした。